▽はじめに
この記事をしたためるのに数か月掛かっている。関係各所からも叱咤を頂戴しており、誠に心苦しく感じている期間が長きに及んだ。素直な想いを表現したくて心を巡らせるのだが、その淡く陽炎のような感動は刺々しく陰鬱とさせられた日常の前で すうっと、しかも簡単に消え失せていく。日常の中であの感覚を掴み戻すことがどうしても出来ないのである。
▽淡く、水の中で見る幻想
今春リリースされたLaidback 2018というアルバム。井筒香奈江さんがボーカリストで、ピアノ二スト・藤澤由二さん、ベーシスト・小川浩史さんと組む、既に結成16年のセッション Laidbackの今の姿を映した作品である。ちなみにLaidback名義では過去二枚のアルバムリリースのみで、長らくライブを軸に活動をつづけていたという。そんな勝手知ったる腕利きたちによる久々の作品、と言える。
「時のまにまに」という一連のシリーズで有名になった井筒さんのソロ作品と比較すると、本作の表現が全く対局に位置するかのようなイメージだったのには本当に驚き、そして胸高らかに躍った。ノンリバーブでスーパーリアリズムな世界観を意図的に構築していた井筒さんのソロ作品とは異なり、本作の深いリバーブによるグラデーションの美しさは、まるで水の中で覗う幻想的な情景のようにとても淡い。疲れから来る微睡みの中で、上村松園の待月と牡丹雪をうっとり眺めていた、ある日のささやかで幸せな時間を思い出す。
「誰にも邪魔されず、ここのまま時間が過ぎ去っていけばいい」
脆いファンタジーは、いずれ現実に戻らねばならぬことを静かに拒否する。
▽なぜこうも大きく変わってしまったのか?
オーディオマニアや関連業界に信奉者を作るほどまでに熱く支持されてきたスーパーリアリズムなイメージを、何故本作で大きく変えてしまったのだろうか? プロデューサーを兼務する井筒さんの心境はこれまで様々な媒体で語られているので割愛するが、そう決意させる切っ掛けやカギとなる出来事があったはずなのだ。作品にゆったり揺さぶられながら一番知りたくなったのはそれであった。のぞき見のようで少し悪趣味な感情だけれども。
井筒さんのソロ名義ではあるが 前作の「リンデンバウムより」から少し進む方向が変わってきた事に気がついたリスナーさんも多かろうと思う。環境の変化に伴う発展的な進展がそこにはあったようだけれど、本作での変容の様はまるで革命なほど。これまでの軌跡からは絶対に辿り着けない到達点は、魔法使いか何かにタマシイを預けない限りとても・・・。
井筒さんによると、やはりその魔法使いは居たのだそうだ。大変著名なレコーディングエンジニアの高田英男さんである。この人との出会いとアドバイスが、外からでは窺い知れない化学変化をもたらすわけだ。16年も一緒に過ごす仲間もろとも合わせて魔法にかけてしまったのが、さして同じ時を分かち合ってもいない人だったなんて、人の出会いとはなんとも奇妙で、素敵なものなんだと羨ましくもなる。
▽ライブのありのままでいいじゃないですか
この作品はスタジオでの一発録りだそうだ。ロケーションがライブハウスからスタジオに移っただけ、と言える。一聴してまず驚く事は、ファンタジーの世界に誘うかのようなピアノの余韻と 、重くて存在感あるベースのサウンドだろう。それと等価でボーカルが現れる。空気をつくるのはたしかにピアノだ。このイメージと共存した個性的な奏法に聴こえるベースライン。ボーカルはこれらの作り出す大波小波の中で、ゆだねるように漂いつつ存在感を見出す。だれが突出するわけでもない。溶け合うプレイ。セッションし慣れたプレーヤーたちのバンドサウンドそのものだ。
作品制作の構想段階で、高田さんは大塚で行われたLaidbackによる いつものライブを聴きにいらしたそうだ。そして、こう語ったという。
「このライブ、そのままでいいじゃないですか」
プロデューサーたる井筒さんはそんな魔法のコトバに堕ちたらしい。
Laidback2018のベースサウンドはオリジナルの世界観だ。存在の大きさ故、いろいろな感想や意見が出てくるだろう。もし疑問を感じたのであれば、是非Laidbackのライブを聴きに行ってみるといい。「そのままでいいじゃないですか」という意味がきっと理解できるはず。
▽四人目のプレーヤーとして
さて、魔法使いの話に移ろう。魔法は深く、そしてその場の全員がかからなければ意味が無い。魔法使いは果たしてどんな魔術を使ったのか?
高田さんは長いレコーディング経験を踏まえて、いつも実践していることがあるそうだ。録音するべきプレーヤーが心地よく演奏できるように配慮する目的で。
「プレーヤーの呼吸に合わせ、同じタイミングで息をする」 所作のすべてをシンクロさせて プレーヤーと同じ空気と温度に自らを染める、という。
プレーヤーが演奏中にモニターする「返し」はその顔色や様子を見ながらエンジニア自らの手で調整する。普通は演奏者が歌いやすい、演奏しやすいように各々が自由なバランスで調整してしまうのだそうだ。が、それを良しとせず、レコーディングエンジニアからまるで彼女らへと寄り添うかのようにモニター音すら作り込む、という。
レコーディングの時に井筒さんが架けていたモニターヘッドフォン、これはその最中に高田さんから薦められたものなのだそうだ。ノイマンU67に向かって挑む井筒さんとともにライナーに写された、まさにそれのことである。井筒さんによると、当初架けていたモニターヘッドフォンはどうにも相性が合わなかったらしい。音が取りにくかったのか? 気が散ってしまうのか? 些細な振る舞いだったんだろうが、歌いずらそうにしている姿に気がついた高田さんより、「では、こちらを使ってみたらどうでしょう?」と声を掛けてもらった、という。薦めに従って架け替えてみると、これがハマる。そこから差し障りなくレコーディングに集中できるようになったんだそうだ。この話、「ミュージシャンとはなんとも繊細なものなのだな」と少しばかりの驚きを覚えたのだけれど、“ほんの些細な仕草” から妨げを見逃さなかった相手の観察眼にしても全く感嘆してしまう。
これらのエピソードを初めとして、魔法使いによる長くて深い経験を裏付けにした一挙一動は、大いにLaidbackの御三方の心を掴んだのだそう。結果、プレーヤーとその場のスタッフに絶対的な信頼と一体感が生まれる。音楽作品はプレーヤーだけで創造されるものではない。「高田さんはね、この作品のバンマスなのよ」 井筒さんはそう断言した。
レコーディングエンジニアとは、ミキサー卓のフェーダーに手を添え 寡黙にスタジオを見つめる、理知的で常にクールな録音技術者というものではないようだ。スタジオの同じ空気で呼応しているもうひとりのプレーヤーなのかもしれない。私は初めてそれを知った。
▽高田英男という人
元ビクタースタジオのスタジオ長という輝かしい経歴とともに、現在はミキサーズラボというレコーディングの職人集団の中で現役を張ってらっしゃるプロ中のプロ。著名なベテランスペシャリストゆえ、モノ知るひとびとにはもう今さらなお話。
ミキシングコンソールとして使ったニーヴ88Rやショップス、AKG、サンケン等適材適所で選択されるマイキングの話など、レコーディング技術に纏わる話もいっぱいしてくださったのだが、この点はその筋の専門家がきっとどこかで記事化しているはず。あえて触れるのであれば、この話だと思う。「ピアニシモを大切にして録るとフォルテシモも美しくなります。音楽としてのバランスが整うのです」といった件だ。四人目のプレーヤーとしての観察眼を踏まえると、連鎖的に腑に落ちる思い。ジェントルな言葉遣いと声色。繊細さと懐の深さを兼ね備えた配慮の行き届く感性は、そんなところからも推察されよう。
高田さんは数年前に書かれたある媒体でのインタビューでこんな話をしていた。筒美京平さんの発した言葉について、である。「いい音と売れる音は違うんだよ」という言葉だ。この言葉が今胸にしみると仰っているのだが、実はこの表現の意図とするところを聞いてみたかったのだ。なぜなら、言葉尻を捉えただけだとミスリードしてしまうのではないか、と不安に思えたからだ。謎めいた扉を開ける機会がやってきたことに、私はひそかに高揚していた。
高田さんはその意図をこんな感じで表現されていた。「音楽というものには、作詞作曲された時点で計算されたアレンジがあります。ご存知の通り、京平さんの作品はそれが本当に高いレベルで構築されているんです。ですから それを理解して、録音した作品がそのポイントに到達出来なければいけない。その到達点が「売れる音」です。いい音で収録するのはある意味当然の目的なのだけれど、この「売れる音」とは、レコーディングエンジニアの言う「いい音」を満たした先に存在しています」
「いい音」と「売れる音」は別なラインにある対義概念ではなくて、同じ軌跡の上に存在する。つまりは「昇華」である、と理解した。そうか・・・よかった。
イベント中の一枚のスナップを、ご参加頂いたお客様から拝借した。それが上の画像。目をつぶって聴き入る高田さんと井筒さんの姿である。これはイベント本番での楽曲演奏中の一コマで、同じ時にはスピーカーの前でお客様も真剣に聴き込んでいる。まさにその瞬間となる。
私はこのすぐ傍らに立っていたのだが、とても声を掛けられないほどの真剣さとオーラのようなものを感じていた。いつものイベントであると、この後の進行について軽く声を掛け合ったりするのだが、この日だけは全く出来なかった事が運営側の立場として印象的だ。
今日までかなりの数のオーディオイベントを企画し運営して来た。オーディオメーカーの担当者の方や技術者の方に加え、アーチストやレコード会社の関係者の方もゲストにお招きした。今、改めてこの姿を見て思う。なんて真摯な・・・。本番前のチェックでは真剣な方も多い。が、本番中これほどまでに集中された方は・・・、正直に言うと過去にはいなかった。付け加えると、リハーサルの段階でも 高田さんはその日のイベントで演奏するすべての楽曲をもれなく確認されていた。たっぷり時間を掛けて。リハーサルの確認レベルでもちょっといつもとは格が違っていたように思う。
Laidback2018という幻想は、この人が導かなかったとしたら けっして現実世界には降りてこれなかっただろう。
▽このLaidback2018がオーディオにもたらす期待
これまでの井筒さんの創造していた名作群は この段階で堅牢な世界が確立されていて、再生時における解釈の上で、オーディオ的に自由な表現を試みる隙が見出しにくかったように 個人的には感じていた。完成され過ぎていてその余地が無いように思えたのだ。だからこそ、リファレンスソースとなると「どこも等しく井筒香奈江の世界」となり、下手をするとこのイメージにオーディオ側が振り回されていた観すらあった。
この観点からのLaidback2018は、オーディオ的な解釈にも大変に寛容であるように感じられ、「この余裕」が作品の完成度と高いレベルで共存していることに賞賛したくなる。達観に至った貫録、とでも言おうか。秋に本番となる様々なオーディオイベントでこのタイトルを耳にする事が本当に多くなると思う。今年は各ブースの楽曲の解釈が「単なるいい音」に留まらなくなると思えて、本当に楽しみになる。近年に無いオーディオ的な高揚感をプレゼントしてくれたLaidbackの皆さんと高田英男さんに、心からの感謝をお伝えしたい。
・・・と書いたが、この表現はありのままの姿ではない。趣旨に偽りはないが、自分でも外ズラのいい脚色だと思う。
誠に個人的な話となり恐縮するのだけれど、正直言うと、私は 今オーディオに疲れているようだ。他人と接するオーディオに対して少しくたびれたのだ。
そんなこともあって、今音楽を聴くときはシルバーディスクをCDプレーヤーに載せている。棚からCDを選び、ケースを開け、シルバーディスクを取り出してプレーヤーのトレーへと載せる。三角のボタンを押し、おもむろにケースからライナーを取り出す。レコード屋でCDを選んでいる時間も楽しくて仕方がない。20年前やっていたそのまま。だれとも分かち合うことなどなく、ただただひとりでワクワクしている。リッピングとかハイレゾとかタグ付けとか、そういうのからはずっとずっと遠ざかりたい。
棚から選ぶとき結構な確率で Laidback2018 のCDケースを抜きとる。そして三角ボタンを押しながら不意に思うのだ。
「今年の秋はきっと面白いんだろうな・・・」
何が幻想で何が現実なのかわからなくなる、そんな作品。
消し去ったはずのオーディオのステキな世界すら不意に突き付けてくる、そんなテーマ。